東京都足立区の歴史
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参道
所在地 足立区西新井1-15-1 真言宗豊山派 五智山 遍照院 總持寺 ごちさん へんじょういん そうじじ 西新井大師 山門 大本堂 弘法大師立像(左) 三匝堂(栄縲堂)(中) 十三重宝塔(右) 奥の院(左) 権現堂(中) 光明殿(右) 延命水洗地蔵尊(左) 塩地蔵(中) 福寿地蔵尊(右) 八角堂(左) 不動堂(中) 弁天堂(右) 稚児大師尊像(左) 如意輪堂(女人堂)(中) 鐘楼堂(右) 西新井大師には『弁天堂』、『十三重宝塔』、『三匝堂(栄縲堂)』、『塩地蔵』、『山門』、『如意輪堂(女人堂)』、『不動堂』、『八角堂』、『水屋』、『地蔵尊』、『鐘楼堂』、『出世稲荷神社』、『弘法大師立像』、『権現堂』、『奥の院』、『稚児大師尊像』、『延命水洗地蔵尊』、『菩提樹』があります。 PR 所在地 足立区西新井1-15-1 (西新井大師) 地蔵菩薩は釈尊の滅後、仏がいなくなったこの世界の衆生を、弥勒佛が出現するまでの間、教化する菩薩であります。 この延命水洗地蔵尊を信仰すると十種の福徳が授かり特に寿命長遠の功徳があります。弘法大師様御降誕1200年の記念として建立いたしました。 ご真言 おんかーかーかびさんまえいそわか 西新井大師 総持寺 所在地 足立区西新井1-15-1 (西新井大師) ここに安置される地蔵菩薩は、江戸時代より特にいぼ取りその他に霊験ありと伝えられ御堂内の塩をいただきその功徳ある時、倍の塩をお返しするところから塩地蔵と申し諸人の信仰盛んなり。 ご真言 おんかーかーかびさんまえいそわか 西新井大師 総持寺 所在地 足立区西新井1-15-1 (西新井大師) 今にまします弘法大師様高野山奥の院を関東に奉迎して当地にまつりました。かつてこの御堂の前に御霊屋影見の井戸あり、かかるところから当山は関東の高野と称され高野山の代拝所として江戸の昔より今日まで善男、善女の参ずる者が多い。 御遺告 虚空尽き涅槃尽きなば吾が願いも尽きなん ご宝号 南無大師遍照金剛 西新井大師 総持寺 所在地 足立区西新井1-15-1 (西新井大師) 権現堂の由来は、遠く当山建立の砌り、山内の地鎮のために権現像をまつることに始まる。その後数度の修復を経て今日に至る。権現とは、衆生済度の為に仏が神に化身して、我が国に現れた御影を申し上げる。 西新井大師 総持寺 所在地 足立区西新井1-15-1 (西新井大師) 真言宗の開祖、讃岐の人、名は空海、勤操大徳に従って出家し、求聞持法を受け延暦14年(795)東大寺戒壇に登って授戒、延暦23年(804)5月入唐、長安青龍寺に於いて恵果阿闍梨より悉く密教を伝授した。大同元年(806)帰朝の後は真言密教を弘め、承和2年(835)3月21日高野山で入定され、後醍醐天皇より弘法大師の謚名を賜った。 この立像は、開宗千百年の記念に東京千住睦講により諸国巡鍚の御影を現したものである。 ご宝号 南無大師遍照金剛 西新井大師 総持寺 所在地 足立区西新井1-15-1 (西新井大師) 登録 昭和57年(1982)12月 この堂は一見三重の塔に見えるが、江戸時代に流行した三匝堂(さんそうどう)で、俗に栄螺堂(さざえどう)と言われる仏堂の一形式である。江戸中期本所の羅漢寺に建てられたものをはじめとして、関東以北の寺院に相当建てられたらしいが、今に残る遺構は非常に少ない。都内では明治17年(1884)改築とはいえこの堂のみで、貴重な建築物である。 堂の内部には、初層に本尊の阿弥陀如来と八十八祖像、二層に十三仏、三層に五智如来と二十五菩薩を祀ってある。現在は本尊が新本堂に移されている。 昔は、ここに参れば一時に諸国の霊場、諸仏を巡拝したのと同じご利益があるとされ、さざえの殻の中のような堂内を初層から三層まで巡拝した。 平成16年(2004)3月 足立区教育委員会 所在地 足立区西新井1-15-1 (西新井大師) 山門は寺院内に入る総門で三門とも書く。 この建物は、江戸後期の建立、素木造、楼上に五智如来を安置し両脇に寺門安護の金剛力士像をまつる。 西新井大師 総持寺 所在地 足立区西新井1-15-1 (西新井大師) この塔は高祖弘法大師報恩謝徳の為に建立されました十三重の塔です。塔身には高祖大師の御影を謹刻し内には恵果阿闍梨より受け継がれた仏舎利一粒が納められさらに高祖大師ゆかりの聖地より白砂聖石を蒐め埋納されております。 塔は卒都婆(ストィーバ)と言われお釈迦様の仏舎利を奉安されるために建造されたのが始まりです。 密教では卒都婆鈔に「大日遍照の一身十方諸仏の具体」と説かれております。造立供養の功徳は無辺にして量り難く十種の功徳を被るといわれます。 開眼法会、平成7年(1995)4月20日執行 こ宝号 南無大師遍照金剛 西新井大師 総持寺 所在地 足立区西新井1-15-1 (西新井大師) 稲荷明神とは、本来五穀の神であります倉稲魂神をお祭りしたものである。 弘法大師様が嵯峨天皇より東寺を賜りました時、明神が翁の姿となって現れ救いを垂れられたので、東寺の鎮守として祭られ盛んになったといわれます。 この社殿は弘法大師降誕1200年の記念として再建いたしました当山の鎮守であります。 西新井大師 総持寺 所在地 足立区西新井1-15-1 (西新井大師) 地蔵菩薩は釈尊入滅後 弥勒菩薩出生までの間無仏の五濁悪世の救済を仏よりゆだねられ さまざまに姿を変え六道を化導し 三途の川の賽の河原に在っても子供たちの迷いを除き能く救うとされます。 御供養となる五輪塔婆を献ずることは地蔵菩薩建立の意味を成し、大慈悲の功徳によって精霊を擁護し安らか成らしめます。 ご真言 おんかーかーかびさんまえいそわか 西新井大師 総持寺 所在地 足立区西新井1-15-1 (西新井大師) 弘法大師様は、宝亀5年(774)6月15日讃岐国多度郡屏風ヶ浦、現在の香川県善通寺市に出生、幼名を眞魚と云い、幼にして智恵深くして神童の誉れ高くすべてに秀でていらっしゃいました。古来よりこの稚児大師様を信仰すれば子育て、学業成就のご利益をいただくことが出来るとされます。弘法大師様御降誕1200年の記念として東京藝術大学教授菅原安男先生に委嘱して謹作しました。 ご宝号 南無大師遍照金剛 西新井大師 総持寺 所在地 足立区西新井1-15-1 (西新井大師) 本尊如意輪観音は法輪を転じて苦しみを受ける一切有情に宝財を施し、あるいは如意珠より福智二徳を出生し衆生の苦を除き楽を与える観音菩薩である。 當山では何時の頃からか特に女人の諸願成就に霊験ありとされ、その功徳多き故に女人堂と伝えられ衆生の帰依と共に今日に至る。 ご真言 おんはんどま しんだまに じんばらうん 西新井大師 総持寺 所在地 足立区西新井1-15-1 (西新井大師) 本尊不動明王は、不動尊又は無動尊とも云い、大日如来が済度し難い衆生に対し右手に剣左手に索を持ち大火焔を放ち忿怒の相に現じ一切煩悩を調伏し遵法せしめ給う尊である。 堅固不動の浄菩薩心の尊なれば、諸願成就は勿論、悪毒、災害を除き延寿除病等効能広し。堂内には不動明王を中央に右に制吨迦、左に矜
羯羅漢の二童子を祀り、當山修行の道場である。
ご真言 のうまくさまんだばらだん せんだまかろしやだそわたや うんたらたかんまん 西新井大師 総持寺 所在地 足立区西新井1-15-1 (西新井大師) 本尊の弁財天は音楽、弁才、財福などを司る女神で妙音天、美音天ともいう。もと印度の河神で、のち学問、芸術の守護神となる。 当社の建立は詳らかではないが江戸期の古書にも記されて、現在、芸道達成、学業成就、航海安全等の祈願成就を願う人々がすくなくない。 ご真言 のうまくさんまんだぼだのう そらそばていえいそわか 西新井大師 総持寺 所在地 足立区西新井1-15-1 (西新井大師) お釈迦さまは、29歳で悟りを求めて出家をし、6年間にわたる難行苦行をつらぬきましたが苦行では悟りを得る事ができないことを知ったお釈迦さまは、菩提樹の下に座り、悟りを得るまではこの座を立たない事を誓い、数日を経てついに悟りを開かれたのです。時に12月8日、お釈迦さま35歳のときでした。悟りを得ることを成道と呼び、また真理に目覚めた人を仏陀といいます。 西新井大師 総持寺 所在地 足立区千住橋戸町~荒川区南千住 千住の大橋と荒川の言い伝え 大橋と大亀 千住の大橋は墨田川に架けられた最初の橋です。この川は以前荒川とも渡裸川とも呼んでいました。昔は文字の示すように荒れる川でありトラ(虎)が暴れるような川と言われていました。こうした川に橋を架けることは難工事ですが当時土木工事の名人と言われた伊奈備前守忠次によって架けられました。千住の大橋の架橋については”武江年表”文禄3年(1594)の条に「・・・中流急漏にして橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて船を圧す。船中の人水に漂う。伊那氏熊野権現に折りて成就す」と書いてあります。川の流れが複雑でしかも地盤に固い所があって橋杭を打込むのに苦労したようです。そうした事から完成時には一部の橋脚と橋脚の間が広くなってしまいました。ここで大亀の話が登場するのです。この附近の川には、ずっと以前から川の主といわれる大亀が棲んでいて、そのすみかが橋の川底にあったので、打込まれた橋杭が大亀の甲羅にぶつかってしまいました。いくら打込もうとしても橋杭は入っていきません。そうしているうちに杭は川の流れに押し流されてしまいました。その場所をさけて岸辺に寄ったほうに杭を打込んだところ、苦労もなく打込めました。見た目に橋脚は不揃いになってしまいました。川を往来する舟が橋の近くで転覆したり橋脚にぶつかると大川の主がひっくり返えしたとか、橋脚にぶつけさせたと言われています。船頭仲間でも大橋附近は難所として、かなり年季の入った船頭でさえ最大の注意を払いここを通り越すと”ほっと”したそうです。 大橋と大緋鯉 千住の大橋から十数丁遡った対岸の”榛木山”から下流の鐘ヶ渕にいたる注意木を棲家としていた大緋鯉がいました。大きさは少さな鯨ほどもあり、緋の色の鮮やかさは目も覚めるばかりでした。かなり深いところを泳いでいてもその雄姿が認められ、舟で川を往き来する人々の目を楽しませていました。人々は大川の御隠居と言って親しんでいました。ところが大橋を架ける事となり杭を打込み橋脚を作っていくと脚と脚が狭くて大緋鯉が通れなくなり、大緋鯉が榛木山から鐘ヶ渕へ泳いでくると橋脚にその巨体をぶつけてしまいます。橋がグラグラ動いて立てたばかりの橋脚が倒されそうになります。橋奉行は付近の船頭達に頼み大きな網の中に追い込んで捕獲しようとしましたが、ものすごい力を出して暴れ回り思うように捕獲できません。櫓で叩いたり突いたりしましたが捕えられません。とうとう鳶口を大緋鯉の目に打込みましたが、目をつぶされただけで網を破って逃げ去りました。しばらくの間緋鯉は姿を見せませんでしたが、片目を失った緋鯉は目の傷が治ると、以前にも増して暴れ回り橋脚によくぶつかり今にも橋が倒れそうになります。こうした事が続いては困るので橋脚を一本岸辺に寄せて幅を広く立替え、大緋鯉がぶつからずに泳ぎ回れるようになり、舟の事故が無くなりました。その後も緋鯉の大きく美しい姿が人々の目を楽しませてくれた事は言うまでもありません。 川の環境を良くする為に一人一人が行動する時 水はあらゆる生命の維持、環境や生態系を保つ無くてはならない源泉です。残念ながら川の水質は一時よりは良くなっていますが、汚れています。誰が汚しているのか、私達人間です。誰かがやってくれる、誰かにたのむのではなく自分が汚れた物質を流さない、捨てない事を実行する。一人一人が水環境を守る事です。 このテラスの看板群は多くの企業の協賛金と東京都・足立区の後援により作られました。ご協力を感謝致します。 千住大賑会・河原 橋番付 江戸大川橋(吾妻橋)が1774年の架橋であるから江戸後期の作であると思われる。千住の大橋は日本の橋の中でも行司役とされている。 河番付 江戸期の作だが明確な年号は不明である。 公益信託あだちまちづくりトラストの助成を受け又足立区の協力により作られました。 千住大賑会・河原 (財)足立まちづくり公社 所在地 足立区千住橋戸町31先 奥の細道矢立初の碑 松尾芭蕉は千住で舟を下り、奥の細道へと旅立ちました。有名な「行く春や鳥啼き魚の目は涙」の句はここで詠まれたのです。 史跡 千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく 行春や鳥啼魚の目は泪 是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。 千住大橋と奥の細道 千住大橋は文禄3年(1594)、伊奈備前守忠次を普請奉行として、現在地よりやや上流の位置に隅田川最初の橋として架けられました。まだ治水も十分でなかった大川での架橋は難工事でした。伊奈備前守は、工事の際に熊野権現に祈願して、架橋の無事完成を期したと伝わっています。その後いくたびか架け替えや修理が行なわれました。現在の鉄橋は、昭和2年(1927)に完成した長さ92.5mで、当時としては総アーチ型という最新の橋でした。 江戸時代の俳人、松尾芭蕉は元禄2年(1689)、門弟曾良とともに深川より隅田川を船でさかのぼり、同元禄2年(1689)3月27日ここ千住大橋の辺りで船を降り、「奥の細道」の旅へ立ちました。この時、矢立てより筆を取って「行春や鳥啼魚の目は泪」と一句。過ぎ行く春を惜しむと同時に、旅立つ者に人ばかりか鳥や魚までが別れを悲しんでいるという意味です。そこには、江戸を離れる芭蕉の想いが隠されています。その後、奥羽・北陸をへて大垣に至る約600里、半年にわたる行脚をし、道中の詠句をもとに「奥の細道」が編まれました。 所在地 足立区千住 千住本陣跡とその周辺 この案内板がある小道は千住2丁目と千住3丁目の境界をなす通りで北千住駅前通りが全通する昭和初期迄はかなり重要な通りでした。 ・千住本陣跡 この案内板の北側一帯が本陣(大名等専用の宿屋)で千住宿ではここ1ヶ所だけでした。敷地は361坪、建坪120坪であったと記録されています。 ・明治天皇行在所跡 明治9年(1876)の明治天皇の東北御巡行の砌。この地に泊られ皇后陛下御一行と送別の宴を当時千住代々の旅篭であった中田家の別館で催されました。そのため底を行在所(天皇陛下が一時的に滞在する所)といいました。 ・千住見番跡 江戸時代から千住宿には遊女(食売女)をおいていい旅篭が50軒ほどありました。明治にこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。花街が千住柳町に移転させられた大正8年(1919)以降も昭和18年(1943)迄営業していたといいます。そのためこの通りを「見番横丁」といっていたそうです。 ・丁目境の筋違 各丁目毎にその境界は街道に対して出入をつけていたのですが1~2丁目、3~4丁目の境界が拡幅等でわからなくなってしまったのに対し、ここは旧街道に対して2丁目側と3丁目側の正面が違うのがはっきり見られます。 平成9年(1997)8月吉日 株式会社 山﨑商店 北千住サンロード商店街振興組合Aブロック
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永山
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