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東京都足立区の歴史
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所在地 足立区千住橋戸町荒川区南千住



      千住の大橋と荒川の言い伝え

  大橋と大亀
 千住の大橋は墨田川に架けられた最初の橋です。この川は以前荒川とも渡裸川とも呼んでいました。昔は文字の示すように荒れる川でありトラ(虎)が暴れるような川と言われていました。こうした川に橋を架けることは難工事ですが当時土木工事の名人と言われた伊奈備前守忠次によって架けられました。千住の大橋の架橋については”武江年表”文禄3年(1594)の条に「・・・中流急漏にして橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて船を圧す。船中の人水に漂う。伊那氏熊野権現に折りて成就す」と書いてあります。川の流れが複雑でしかも地盤に固い所があって橋杭を打込むのに苦労したようです。そうした事から完成時には一部の橋脚と橋脚の間が広くなってしまいました。ここで大亀の話が登場するのです。この附近の川には、ずっと以前から川の主といわれる大亀が棲んでいて、そのすみかが橋の川底にあったので、打込まれた橋杭が大亀の甲羅にぶつかってしまいました。いくら打込もうとしても橋杭は入っていきません。そうしているうちに杭は川の流れに押し流されてしまいました。その場所をさけて岸辺に寄ったほうに杭を打込んだところ、苦労もなく打込めました。見た目に橋脚は不揃いになってしまいました。川を往来する舟が橋の近くで転覆したり橋脚にぶつかると大川の主がひっくり返えしたとか、橋脚にぶつけさせたと言われています。船頭仲間でも大橋附近は難所として、かなり年季の入った船頭でさえ最大の注意を払いここを通り越すと”ほっと”したそうです。

  大橋と大緋鯉
千住の大橋から十数丁遡った対岸の”榛木山”から下流の鐘ヶ渕にいたる注意木を棲家としていた大緋鯉がいました。大きさは少さな鯨ほどもあり、緋の色の鮮やかさは目も覚めるばかりでした。かなり深いところを泳いでいてもその雄姿が認められ、舟で川を往き来する人々の目を楽しませていました。人々は大川の御隠居と言って親しんでいました。ところが大橋を架ける事となり杭を打込み橋脚を作っていくと脚と脚が狭くて大緋鯉が通れなくなり、大緋鯉が榛木山から鐘ヶ渕へ泳いでくると橋脚にその巨体をぶつけてしまいます。橋がグラグラ動いて立てたばかりの橋脚が倒されそうになります。橋奉行は付近の船頭達に頼み大きな網の中に追い込んで捕獲しようとしましたが、ものすごい力を出して暴れ回り思うように捕獲できません。櫓で叩いたり突いたりしましたが捕えられません。とうとう鳶口を大緋鯉の目に打込みましたが、目をつぶされただけで網を破って逃げ去りました。しばらくの間緋鯉は姿を見せませんでしたが、片目を失った緋鯉は目の傷が治ると、以前にも増して暴れ回り橋脚によくぶつかり今にも橋が倒れそうになります。こうした事が続いては困るので橋脚を一本岸辺に寄せて幅を広く立替え、大緋鯉がぶつからずに泳ぎ回れるようになり、舟の事故が無くなりました。その後も緋鯉の大きく美しい姿が人々の目を楽しませてくれた事は言うまでもありません。

  川の環境を良くする為に一人一人が行動する時
水はあらゆる生命の維持、環境や生態系を保つ無くてはならない源泉です。残念ながら川の水質は一時よりは良くなっていますが、汚れています。誰が汚しているのか、私達人間です。誰かがやってくれる、誰かにたのむのではなく自分が汚れた物質を流さない、捨てない事を実行する。一人一人が水環境を守る事です。

 このテラスの看板群は多くの企業の協賛金と東京都・足立区の後援により作られました。ご協力を感謝致します。

  千住大賑会・河原


橋番付

江戸大川橋(吾妻橋)が1774年の架橋であるから江戸後期の作であると思われる。千住の大橋は日本の橋の中でも行司役とされている。


河番付

江戸期の作だが明確な年号は不明である。

公益信託あだちまちづくりトラストの助成を受け又足立区の協力により作られました。
 千住大賑会・河原
 (財)足立まちづくり公社




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