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東京都足立区の歴史
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所在地 足立区千住2-11

浄土宗
 三宮神山 大鷲院 勝専寺



 「赤門寺」という通称で親しまれている浄土宗寺院で京都知恩院を本山とする。寺伝では文応元年(1260)勝蓮社専阿上人を開山、新井政勝を開基とし草創されたという。
 江戸時代に日光道中が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、徳川秀忠・家光・家綱らの利用があった。また日光門主等の本陣御用を務めた記録も見られ、千住宿の拠点の一つであったことが知られる。
 加えて当寺は、千住の歴史や文化に深くかかわる多くの登録文化財を今に伝えている。木造千手観音立像は千住の地名起源の一つとされ開基新井政勝の父正次が荒川から引き上げたという伝承を持つ。
 ほかに1月と7月の15・16日の閻魔詣で知られる寛政元年(1789)の木造閻魔大王坐像、巻菱潭の筆による明治12年(1879)の扁額「三宮神山」を山門に掲げるほか、千住の商人高橋繁右衛門の冑付具足を伝来している。いずれも足立区登録文化財となっている。
 平成13年(2001)10月 足立区教育委員会
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所在地 
足立区千住河原町10-13

    句碑
   誓いての 後のたのみや 夏木立
揮毫は元掃部宿対嶋薬局のご隠居さんで 雅号は冨雪

やっちゃ場の問屋四十三軒の人々が檜樹を奉納した記念に建立した。どうして奉納したかは定かではなく俳句の作者も不明である。どなたかご存知の方は当神社へお知らせ下さい。
 河原稲荷神社




 千寿七福神 福禄寿

 千住市場創立三百三十年碑
 天水槽
 狛犬
 句碑

 河原稲荷神社には『金銅装神輿(千貫神輿)』、『神道厨子』、『天水槽』、『狛犬』、『千住市場創立三百三十年碑』、『句碑』があります。


所在地 足立区千住河原町10-13 (河原稲荷神社)

狛犬は高麗犬とも書く。コマというのは異国を意味しているので、高麗の字を宛てたようである。
狛犬は石などで造り御殿や神社の前に据え置くもの。
鬼魅を避けるためといふ。起源については種々の説があって一定しない。一般に狛犬を唐獅子と言ったりするように、本来は獅子ではないかと思われる節がある。
当神社の狛犬は足立区内細大の狛犬で自然石を組み上げた上に鎮座させている阿吽(あうん)の一対。口を開けている方が阿で雄という。口を閉じているのが雌。何でも大きなものが好きな「やっちゃ場」の旦那衆が造りあげたものである。
残念ながら石工は疎か献納者の名も刻んでいない。良く似た兄弟狛犬がある。
浅草寺隣り三社祭で知られる浅草神社の狛犬。台座の石組みもそっくり同じ手法でダイナミックなノミ捌きも同じ石工の作としか思えない。
皆様も是非浅草神社でご覧下さい。
 河原稲荷神社

 


所在地 足立区千住河原町10-13 (河原稲荷神社)

   千住市場創立330年碑
明治39年(1906)5月22日千住市場創業330年の祝賀祭が盛大に挙行された。その模様は広場に330台の盤台を積み上げ神宮皇后の山車と大蕉の山車を作り各々に大鼓を備えつけ、これを打鳴らして町中を引き廻した。他に千貫神輿と呼ばれる大神輿をニ天で担ぎ少年は中神輿、子供は小神輿の三基の神輿が市場中を練り歩いた。神社境内には四米もの記念碑を「浅草北口睦」の17名の人達が建立した。「浅草北口睦」とは吉原遊郭を中心にして南千住寄り一帯で橋場、今戸、吉野、地方今戸、日本堤などの青果商の同業組合である。
記述の頭取とは会長、組合長で、伍長は取締幹事長の様な役職である。因みにこの祭りで問屋が三軒潰れた。昔からやり出したらとことんやるのが河原気質と云いお祭りともなれば当番の問屋が2、3軒潰れた。千貫神輿は現存する。
 河原稲荷神社


所在地 足立区千住河原町10-13 (河原稲荷神社)

水槽は鋳鉄製で高さ85cm直径98cm上部の円周281cm下部の円周262.5cmでやや下へつぼまり上部に幅6cm厚さ6cmの縁取りがある。
千住の青物問屋街は戦前「千住のヤッチャ」と呼ばれ東京の北門市場としてその名を馳せていた。
嘉永3年(1850)の水槽は千住で熱心に行われていた成田講千住総講中傘下の一派御乎長講による寄進である。水槽には青物問屋等の講員名が記名されている。右水槽29名左水槽21名(重複除く)総計50名。鋳造工らしき物2名、書は徹齋である。
御乎長講の遺物として大幟が現存している。
いつの日か掲揚する。
 河原稲荷神社

所在地 足立区千住河原町10-13 (河原稲荷神社)

   足立区登録文化財
金銅の金具で一面に装飾された木造漆塗の大型神輿である。屋蓋は照り起り露盤上に鳳凰が据えられ、降棟の先端は円形の蕨手となり頂に飛燕がついている。胴部の前を左右面の中央には浮彫りになった登龍、立浪の打出金物が飾られている。基部上は玉垣を巡らし四隅に高欄、中央に鳥居がついている。基部の後方右側に「明治未4年5月吉祥日」と制作年代を示す陰刻銘がある。明治初期のさくひんだが江戸神輿の形式を受けつぎ細工や装飾も見事で美しい。総高238.5センチ、胴部高72.5センチ基部方123.0センチと大きく通称千貫神輿と呼ばれているが、実際の重量は四百五十貫であり、この大袈裟な通称はむしろその豪壮な装飾から生じたのであろう。9月14、15日は千住の祭りである。稲荷神社は千住の中心、河原町の市場の鎮守なので、神輿は宮を出て市場内に入り町内を渡御するのが大祭の慣わしとなっている。河原稲荷の祭礼では昔はやっちゃ場の各問屋に力自慢の若い衆が多勢いたのでニ天で担いだ神輿である。
 河原稲荷神社

所在地 足立区千住河原町10-13 (河原稲荷神社)

文化財登録名称「木造黒漆小型厨子二基」
二基同じようだが彫物がそれぞれ違う。
小さなお宮だけにその精巧さが何とも魅力的である。
昭和40年代に旧神輿倉の中に埃に塗れて発見された。
「祭礼の神輿が町内巡行の際行列に加わった道具の一つである。内部に御神酒を容れる二本の瓶子を納め二基を天秤棒の両端にさしこんで肩にかついて御旅所で信者に内容物を分けたのである。」
江戸後期の造形性がよく現れていて特に製作年代が明記してある点が資料としても重要である。
中央に金銅扁額があり、陰刻銘で表に「千住川原町」裏に「天保五甲午歳、細工人錺師宮清」とある。
 河原稲荷神社



所在地 
足立区千住橋戸町25

   橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵
     登録 昭和57年(1982)12月
 当社は、昔この地の半農半漁の開拓民が、稲荷の神を勧請し延徳2年(1490)の創建という。もとは千住河原の景勝地に本殿のみが建立されていたと伝わる。
 江戸時代、千住が宿場になると、社の付近に、上流の飯能・秩父・川越方面から物資が陸揚げされ、この辺りは、継場として栄えた。
 文禄3年(1594)千住大橋がかけられると、人馬の往来が数多くなり、宿場を通る人々や、河川の小揚組などの信仰を集め今日に至った。
 文久3年(1863)拝殿の前扉に、当時、鏝絵の名工として名高かった伊豆長八の創作で白狐が彫刻された。伊豆長八の作品として、数少ない貴重な遺作である。
 平成16年(2004)3月 足立区教育委員会

 

 橋戸稲荷神社縁起碑

 

 橋戸稲荷神社には『伊豆長八作鏝絵』、『縁起碑』があります。




所在地 足立区千住橋戸町25 (橋戸稲荷神社)

この社は、延長4年(926)に創建された 千住では 歴史の古い神社である 初めは 千住の渡し場のほとりの小高い丘に小さな社が造られ 土地の開拓農民や荒川の上流から 江戸に荷物を運ぶ船頭達の信仰を集めた
祭神 倉稲魂命と稱し 本殿は延徳2年(1490) 拝殿は文久2年(1862)に建立された 現在の本殿は 土蔵造りで扉を開くと左右に伊豆長八作の雌雄2匹の狐と稲穂の漆喰の彫刻が見られる
懐古本殿500年 奉祝天皇陛下御即位大典(皇紀2650年)を記念し 総代・氏子中が集い祝祭をあげ茲に縁起の碑を建立する
 平成2年(1990)9月15日  鯨岡兵輔書


所在地 足立区千住橋戸町25 (橋戸稲荷神社)

 足立区登録有形文化財となっている本殿は珍しい土蔵造りである。
 正面、観音開きさゆうの扉の内側には伊豆長八により鏝絵が画かれている。絵は夫婦の白狐で、向って右扉に雄狐・左扉に雌木常が子狐を抱き、背後に稲穂が配されている。子狐を見る母狐の慈愛溢れる眼差し・優美な白狐の姿態など、名工長八の技量が遺憾なく発揮された名作である。
 土蔵造りの本殿も、鏝絵の図柄も、橋戸耕地の稲の量作を祈願したものと思われ、絶えず水害に苦しんだ農民の願いが込められたものと考えられる。
 この鏝絵の作者長八は文化2年(1805)伊豆松崎に生まれ、文政9年(1826)郷里で左官となり、さらに、天保9年(1830)江戸の左官源太郎のもとで技術を研いた。その修行の傍ら、狩野派の画法を学び、鏝絵の技法を生み出した。長八の鏝絵は、伊豆はもとより、関東・東海の各地に見られたと言うが、震災・戦災で失われたものが多く、現存する作品は貴重である。
 平成10年(1998)2月  足立区教育委員会


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